最新記事

いとうせいこう『国境なき医師団』を見に行く

困難と良心を前にして──マニラのスラムにて

2017年6月8日(木)16時40分
いとうせいこう

リカーンの本部にて

そのあと、俺たちはジェームス・ムタリア、ロセル、谷口さんというメンバーでMSFの車に乗って30分ほどケソン市を行き、ドクター・ジュニスに会いに行った。滞在2日目の夜にも会ったリカーンの創始者の一人だ。本部は閑静な住宅街の中にあった。

フィリピン編3にも少し書いた通り、80年代中盤からガブリエラという女性団体の一部だったリカーンは、13人で1995年に独立。コミュニティに根付いたクリニックの活動を、医師、看護士、助産師が中心となって進め、次第に思春期の子供たちにも救援の手が届くようになって、国連からも研修方法の連携依頼があるほどになった。

それを白髪のドクター・ジュニスはゆっくりと正確な記憶しか話そうとしないかのように、時に鼻眼鏡の奥から天井を見上げ、時に俺の目をじっと見て言葉を紡いだ。

多くの成果を上げながらも、ドクター・ジュニスは決して満足していなかった。今から先の目標を聞くと、彼女は即答した。


「ケアの質を上げること」

きわめて具体的で基本的で、しかし絶対に忘れてはいけないことだった。

ito0607e.jpg

人間力を感じさせるジュニス医師のたたずまい。

途中で食事をどうぞと勧められ、おいしい魚料理や鳥を揚げたもの、野菜炒めなどでごはんをいただいた。その場にはドクター・ジュニスの旦那さんも来てくれたのだが、とても意志が強そうで眼光も鋭かった。ああ、活動家だった人だなとすぐにわかった。

ドクター・ジュニス自身、マルコスの暴虐に対抗して地下活動を長く行い、公民権を奪われて保健医療サービスも受けられず、出産が困難だったらしい。そしてその夫もまた3回の逮捕歴があった。

そうやって彼らは国をよくしてきたのであり、今もって貧しい人たちをどう助けるかに力を注いでいた。

そして今また、力に逆らうと直接的な危険のある政権のもとにいるのである。

「総合的に妊産婦ケアが出来る病院が出来たら、それは夢のようなことね」

ごはんを食べながらドクター・ジュニスはそう言った。その夫はじっと黙ってチャプスイをすくって飲んでいた。


「僕らMSFとデータを共有して管理出来たら、より総合的な医療が期待出来ると思うよ」

ジェームスはいつものように簡潔に要点を述べた。ドクター・ジュニスは目を見張った。

そこからは現地団体リカーンが出来ることと、MSFが出来ることをどう組み合わせるべきかの議論に移った。

もちろんそこにはMSF香港所属のフィリピン人であるロセルも対等に参加した。討論はあちこち議題を越えつつ進む。立場も人種も性別も違うが、彼らはいつでも議論するのだ。MSFの他の地域でもよく見られる光景である。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

台湾の頼次期総統、20日の就任式で中国との「現状維

ワールド

イスラエル軍、ガザ北部で攻勢強化 米大統領補佐官が

ワールド

アングル:トランプ氏陣営、本選敗北に備え「異議申し

ビジネス

日本製鉄副会長が来週訪米、USスチール買収で働きか
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 2

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバいのか!?

  • 3

    SNSで動画が大ヒットした「雨の中でバレエを踊るナイジェリアの少年」...経験した偏見と苦難、そして現在の夢

  • 4

    「まるでロイヤルツアー」...メーガン妃とヘンリー王…

  • 5

    時速160キロで走行...制御失ったテスラが宙を舞い、4…

  • 6

    チャールズ英国王、自身の「不気味」な肖像画を見た…

  • 7

    英供与車両から巨大な黒煙...ロシアのドローンが「貴…

  • 8

    日本とはどこが違う? 韓国ドラマのオリジナルサウン…

  • 9

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 10

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 1

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 2

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 3

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 4

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 5

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 6

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 7

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 8

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバ…

  • 9

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 10

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 4

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 5

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 6

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 7

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中