コラム

移民の国アメリカの混迷するアイデンティティを描くサルマン・ラシュディの新作

2017年09月15日(金)18時00分

何十年も潜伏を続けるラシュディの生活が物語に反映されている?(写真は豪邸のイメージ画像です) Amanda Lewis-iStock.

<インド系マジックリアリズムの旗手ラシュディの新作は、アメリカで新たなアイデンティティを創造しようとする一家の壮大な物語絵巻>

インドのムンバイで生まれ、イギリスのケンブリッジ大学で歴史を学んだサルマン・ラシュディは、第二作の『真夜中の子どもたち』(1980年)でブッカー賞を受賞して作家としての地位を確立させた。だが、37年間にわたってインドを治めてきたネルー・ガンディー一家を批判したとみなされたラシュディは故郷を捨てざるを得なくなり、後にイギリス国籍を得た。

彼の名を世界中に広めたのは4作目の『悪魔の詩』(1989年)だ。イスラム教の開祖ムハンマドを題材にしたことでムスリム社会から激しい反発を受け、ラシュディは当時のイラン最高指導者ホメイニから死刑宣告を受けた。世界各国での翻訳者も暗殺のターゲットになり、日本では翻訳者の五十嵐一氏が殺された。

ラシュディは暗殺を逃れるためにイギリス警察の保護を受け、居住地を明らかにせずに何十年も潜伏生活を続けている。2000年からニューヨークに移住したラシュディの最新作『The Golden House』は、ニューヨーク舞台にしたもので、現代アメリカの揺れ動くアイデンティティを描いている。

【参考記事】米文学界最恐の文芸評論家ミチコ・カクタニの引退

オバマ大統領が就任した2009年1月、グリニッジビレッジの豪奢な「ガーデンズ」というコミュニティに移民らしき家族が住み着いた。ネロ・ゴールデンと名乗る富豪には、ペトロニウス、ルキウス・アプレイウス、ディオニュソスという3人の息子がいる。だが、ギリシャやローマ神話を連想させる彼らの名前が創作だというのは明らかだ。ゴールデン一家は、故郷のインドを捨ててアメリカに移住すると同時に、過去を捨て、自分たちを新しく創造したのだ。

同じコミュニティに住む青年ルネは、この謎めいた一家に魅了され、ドキュメンタリー映画を作ろうと思いつく。善と悪の矛盾が共存する独裁者のネロを筆頭に、自他への憎悪に翻弄され精神を病む天才的な長男、長男の憎悪の対象になる芸術家の次男、性的アイデンティティの圧迫に押しつぶされる三男、ネロが築いた帝国の乗っ取りを狙うロシア移民の三番目の妻と、一家のメンバーは魅力的な題材だった。

ルネは、ネロの若妻をロシア民話の魔女バーバ・ヤガーの化身として恐れるが、その暗い魅力に抗えない。かくして、ゴールデン家に密着して壮大な物語を身近で追ううちに、ナレーターのルネ自らが重要な登場人物になってしまう。

プロフィール

渡辺由佳里

Yukari Watanabe <Twitter Address https://twitter.com/YukariWatanabe
アメリカ・ボストン在住のエッセイスト、翻訳家。兵庫県生まれ。外資系企業勤務などを経て95年にアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。近著に『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)などがある。翻訳には、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社、日経ビジネス人文庫)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)がある。

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