コラム

インドが「国境衝突で反中になる」という誤解

2020年07月15日(水)16時00分

印中係争地域の付近に駐屯する中国人民解放軍 MAXAR TECHNOLOGIESーREUTERS

<領有権を争う地域で犠牲者が出ても対中関係が決定的に悪化しない理由とは>

6月15 日、印中国境の係争地域で両軍が衝突し、インド側に20人以上の死者が出た。

モディ政権下、ナショナリズムを強めるインドの社会は、中国製品の不買運動などの激しい反応を示している。中国との対立を深めるアメリカでは、ドイツから引き揚げる米軍をインド太平洋地域に振り向けようとの声が出ている。

20200721issue_cover200.jpg

だが、インドと中国の国境付近での衝突は、これまでも何回も起きては、そのたびに鎮静してきた。2014年9月には習シー・チンピン近平国家主席の訪印の際に中国軍が越境してインド側に進入し、13年と17年にも衝突が起きた。

玄奘法師が経を求めてインドに行って以来、1962年に初めて起きた国境での武力衝突まで、両国は戦争をしたことがない。歴史を通じてインドの向こう側には、中国ではなくチベットがあったからだ。

1914年、イギリスが支配するインドはそのチベットと国境線を画定し、「マクマホンライン」と呼んだ。このとき、イギリスの念頭にあったのは弱体化した清ではなく、ロシア帝国がチベットを籠絡してインドに南下するのを防ぐことにあった。だが中国は、1950年にチベットを併合した後、マクマホンラインを承認していない。だから今回の紛争の背後には、実はチベット問題が黒く大きく横たわっている。

アジアの雄である中国とインドは第2次大戦以降ずっと、テーブルの上ではスマイル、下では蹴り合う隠微な関係を続けてきた。

中国はインドの最大の敵国パキスタンを長年支えてきたし、経済大国となった今ではバングラデシュやスリランカ、インド洋の島々、ネパールやミャンマーなどに進出しては、インドの首を「真珠の首飾り」で絞め付けようとしている。

だが、インド洋では中国海軍はまだ非力だし、陸上でも中国はインドにとって安全保障上の深刻な脅威ではなかった。むしろ中国は、インドにとって欠かせない経済パートナーだ。中国は輸入相手としてダントツ、電話会社は割安なファーウェイの設備を使って利益を上げ、商売人は中国製商品がなければ生計を立てられない。しかも、外国からの投資で成長のかさ上げを目指すモディ首相は、習とも親密な関係を築き、互いの生まれ故郷を訪問し合って「竜象共舞」と称している。

アメリカと対立している中国にとっても、インドとの関係を決定的に悪くするだけの余裕はない。だから印中両軍は以前から交流を続け、共同軍事演習さえやってきた。インドはこれまで米海軍とも共同演習をしてはいるが、主権を譲る地位協定を結んでまで米軍の駐留を求めるはずがない。最近の国境衝突はいずれも、双方が抑制を利かし、兵を引き離して鎮静している。今回もベクトルは沈静化だ。中国製品不買運動も、これまでのように消えていくだろう。中国メディアも今回は騒いでいない。

プロフィール

河東哲夫

(かわとう・あきお)外交アナリスト。
外交官としてロシア公使、ウズベキスタン大使などを歴任。メールマガジン『文明の万華鏡』を主宰。著書に『米・中・ロシア 虚像に怯えるな』(草思社)など。最新刊は『日本がウクライナになる日』(CCCメディアハウス)  <筆者の過去記事一覧はこちら

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

引き続き為替動向を注視、万全な対応取る=鈴木財務相

ビジネス

米金融機関ボーナス、今年は大幅増へ=リポート

ビジネス

日経平均は反落で寄り付く、利益確定売り優勢 

ビジネス

中国、豚内臓肉などの輸入で仏と合意 鳥インフル巡る
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:岸田のホンネ
特集:岸田のホンネ
2024年5月14日号(5/ 8発売)

金正恩会談、台湾有事、円安・インフレの出口......岸田首相がニューズウィーク単独取材で語った「次の日本」

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地ジャンプスーツ」が話題に

  • 2

    「自然は残酷だ...」動物園でクマがカモの親子を捕食...止めようと叫ぶ子どもたち

  • 3

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国の研究チームが開発した「第3のダイヤモンド合成法」の意義とは?

  • 4

    「真の脅威」は中国の大きすぎる「その野心」

  • 5

    デモを強制排除した米名門コロンビア大学の無分別...…

  • 6

    いま買うべきは日本株か、アメリカ株か? 4つの「グ…

  • 7

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 8

    外国人労働者がいないと経済が回らないのだが......…

  • 9

    中国軍機がオーストラリア軍ヘリを妨害 豪国防相「…

  • 10

    翼が生えた「天使」のような形に、トゲだらけの体表.…

  • 1

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受ける瞬間の映像...クラスター弾炸裂で「逃げ場なし」の恐怖

  • 2

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国の研究チームが開発した「第3のダイヤモンド合成法」の意義とは?

  • 3

    「2枚の衛星画像」が伝える、ドローン攻撃を受けたロシア空軍基地の被害規模

  • 4

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミ…

  • 5

    屋外に集合したロシア兵たちを「狙い撃ち」...HIMARS…

  • 6

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

  • 7

    どの顔が好き? 「パートナーに求める性格」が分かる…

  • 8

    ロシアの大規模ウクライナ空爆にNATO軍戦闘機が一斉…

  • 9

    ロシア軍の拠点に、ウクライナ軍FPVドローンが突入..…

  • 10

    外国人労働者がいないと経済が回らないのだが......…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 6

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 7

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体…

  • 10

    「世界中の全機が要注意」...ボーイング内部告発者の…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story