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野口旭

ケイザイを読み解く

MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(4)─クラウド・アウトが起きない世界の秘密

2019年08月08日(木)15時00分

    赤字財政支出がクラウド・アウトを起こさないMMT的メカニズム

    赤字財政支出がクラウド・アウトを起こさないMMTのメカニズムは、基本的にはきわめて単純である。それは、本連載(2)の「MMTのIS-LMモデルを用いた説明」の箇所で用いた下図から明らかになる。

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    既述のように、MMTでは常に、中央銀行は利子率を一定の水準に保つように金融調節を行うことが仮定されている。その場合、IS曲線の右シフトによって金利が上昇しようとすれば(左図)、必ずLM曲線の右シフトが誘発される(右図)。つまり、政府が赤字財政支出を拡大すれば、必ず貨幣供給の自動的拡大メカニズムが作用する。

    要するに、MMTの世界で民間投資のクラウド・アウトが生じないのは、基本的には「中央銀行が利子率を一定の水準に保つように金融調節を行うから」である。通常のIS-LM分析では、左図のように、政府が赤字財政支出を拡大すれば、必ず金利上昇(r0からr1へ)が生じる。それは、通常の右下がりのIS曲線が意味するように、より高い金利はより少ない民間投資をもたらすと仮定される場合には、政府の赤字財政支出によって民間投資がクラウド・アウトされることを意味する。しかし、そこで中央銀行が貨幣供給を増加させてその金利上昇を抑え込めば、確かに民間投資のクラウド・アウトは生じない。

    ところが、Macroeconomics第8章では、このクラウド・アウトに関する「主流派の誤謬5」に関連して、以下のようなきわめて興味深い叙述がある。


    それどころか、財政赤字は金利を引き下げる圧力となる。赤字国債の発行は、赤字財政支出から発生する銀行システムの超過準備を吸収するための利子付き証券を投資家に提供することで、中央銀行が正の目標金利を維持することを可能にする。もしこれらの準備が吸収されなかったとすれば、政府の財政赤字という環境下では、(収益を生まない準備を処分しようとする銀行の競争によって)オーバーナイト金利は下落し、それは通常行われているように超過準備に対して付利を行わない限り、中央銀行の目標金利の同様な下落を招くであろう。(Macroeconomics, p.126)

    MMTはつまり、政府の赤字財政支出は、正統派のいうような金利上昇やそれによる民間投資のクラウド・アウトどころか、「中央銀行が政策金利を維持しない場合には、むしろ金利の下落をもたらす」と主張しているのである。

    これは、本連載(1)で紹介した「MMTの中核命題--中央銀行による政府赤字財政支出の自動的ファイナンス」のステージ2に対応している。MMTにおける政府の赤字財政支出とは、まずは「政府による民間への財政支出支払い」である。それは、民間銀行における預金残高の増加、そして準備預金の増加をもたらす。それはさらに、銀行間短期金融市場での金利下落を誘発する。中央銀行の金融調節すなわち国債の売りオペは、その下落を放置せずに金利の目標水準を維持するために行われる。

    その現象をIS-LM分析で「翻訳」したのが、上の右図の矢印である。通常の正統派的な理解では、政府の財政支出によって銀行の持つ準備預金が拡大したとすれば、それはまさに中央銀行のベース・マネー供給が拡大したことを意味する。IS-LM分析ではそれはLM曲線の右シフト(LM0からLM1へ)を意味するから、利子率は当然ながら下落する。しかし、MMTが想定するように、中央銀行は通常こうした利子率の下落を許容せず、国債の売りオペによって超過準備を吸収し、利子率を矢印のように元の目標水準まで戻そうとする。それは正統派的には、中央銀行のベース・マネー供給が縮小したことを意味する。

    要するに、「政府の赤字財政支出は金利上昇よりも下落をもたらす」というMMTの主張を正統派的に解釈すれば、「その政府の赤字財政支出は、貨幣市場の方ではまずはベース・マネー供給の拡大をもたらすからだ」ということになる。

    財市場が明示的には存在しないMMTの世界

    とはいえ、依然として問題は残る。上の左図が示すように、通常のIS-LM分析では、政府が赤字財政支出を行えば、それはまずはIS曲線の右シフトとして現れる。金利が上昇し、民間投資のクラウド・アウトが発生するのはそのためである。しかし、MMTの例示では、この「IS曲線の右シフト」に相当する状況は、どのステージでもまったく想定されていない。政府の赤字財政支出とは政府による民間の財サービスの吸収を意味するから、一国の生産と所得はそれによって押し上げられていくはずである。それがまさしく「IS曲線の右シフト」である。しかしMMTには、国民所得会計の恒等式は存在しても、IS曲線に相当する分析用具が存在していない。

    本連載(1)で紹介したMacroeconomics 第20章第4節における中央銀行と民間銀行のバランスシートによる資金循環分析とは異なり、ランダル・レイのModern Money Theoryの第3章では、民間非銀行部門のバランスシートが明示化されている。そこでは確かに、政府の赤字財政支出によって民間部門から政府部門に「ジェット」が移転されることが想定されている。しかしそれは、分析上は何の意味も持ってはおらず、単に「政府は中央銀行によるソブリン通貨の創出によって、金利上昇も民間投資のクラウド・アウトも引き起こすことなく、民間部門から政府部門にいくらでも財サービスを移転させることができる」というMMT命題の説明のために出てくるにすぎない。IS-LM分析のように、そうした政府支出による財サービスへの需要拡大が、財市場でのスラックすなわち産出ギャップを縮小させ、一国の雇用や所得を変えて行くとか、それが貨幣市場に影響を与えて金利あるいは貨幣量を変えて行くといった視点は、一切存在しないのである。

    要するに、MMTにはIS曲線に相当する財市場分析そのものが存在しない。MMTの世界で民間投資のクラウド・アウトが想定されていない最も本質的な理由は、まさにそこにある。IS曲線が存在せず、財市場分析が存在しないということは、「完全雇用」というマクロ経済にとっての最も本質的な供給制約も想定されていないことを意味する。ソブリン通貨の創出そのものには制約はないのだから、そうした実物的な制約が存在しない世界では、政府は確かに中央銀行によるソブリン通貨の創出によっていくらでも財サービスを民間から政府に移転させることができる。しかも、実物的な制約がなく、トレード・オフも存在しないのだから、それは民間投資のクラウド・アウトを引き起こすこともない。

    それに対して、正統派あるいはMMTの批判者たちの中では、「MMTにもIS曲線(のようなもの)はおそらく存在するが、彼らはそれを右下がりではなく垂直と仮定しているのではないか」という解釈も存在する。その解釈には確かに一定の根拠がある。通常の右下がりのIS曲線とは、金利の低下が民間投資の拡大をもたらすことを意味する。その場合には当然、金利の操作という本来的な意味での金融政策がマクロ安定化に大きな役割を果たす。逆に言えば、MMTのように「金融政策は財政政策に従属する存在にすぎない」と想定するためには、民間投資の利子非弾力性を仮定しておく必要がある。

    しかしながら、少なくともIS-LM分析では、政府の赤字財政支出によってIS曲線が右にシフトすれば、仮にそれが垂直であったとしても、必ず金利を上昇させる方向に作用する。MMTではそのようなステージがまったく想定されていないということは、そこにはIS曲線あるいは財市場そのものが存在していないと考えるほかないのである。

    プロフィール

    プロフィール

    野口旭

    1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
    同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

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