コラム

ピケティはマルクスを超えられるか──映画『21世紀の資本』を考察する

2020年07月13日(月)18時50分

理論的裏付けと政策戦略がまったく異なるピケティとマルクス

現在ではもはや歴史の一断片にすぎないが、マルクス主義の政策プログラムは、社会主義経済圏の拡大という形で、少なくともある時代には世界を二分するような隆盛を誇った。その理由の一端は、おそらくその「科学的」な装いにあった。すなわち、マルクス主義は、単なるイデオロギー的世界観に留まらず、労働価値説と搾取説に基づく窮乏化論と、それに基づく歴史法則という「理論的裏付け」を持っていた。カール・マルクスの朋友であったフリードリヒ・エンゲルスが『空想から科学へ』(1880年)でマルクス主義をその先駆である「空想的社会主義」から区別したのは、まさしくその点に基づいていた。

そのマルクス主義の理論とは、「資本家による労働者の搾取と、それによる労働者の窮乏化は、生産手段の私的所有それ自体から生み出される。したがって私的所有に基づく資本主義は、この基本矛盾によって必然的に崩壊する」という命題である。カール・ポパーが『歴史主義の貧困』(1957年)によって批判したように、ポパー的な科学理解からすれば、このマルクス主義の「歴史法則」は明らかに反証可能性を持たないから、必ずしも科学的命題とは言えない。しかしながら、科学とは何かがまだ曖昧であった19世紀半ばという時代に、マルクスが社会現象についての一つの理論的説明を提供したことは、それ自体が既に十分に画期的だったのである。それだけではなく、マルクスはその「理論」に基づいて、「革命を通じた私的所有の廃棄」という政策戦略をも提起していた。マルクス主義はその意味では、資本主義の本質についての一定の把握=世界観を中核とし、それを裏付ける理論的把握と戦略を防備帯とするような、一つの確固とした政策プログラムであった。

ピケティ主義は、資本主義経済の持つ本質的な不平等性の把握という点においては、明らかにその世界観をマルクス主義と共有している。しかし、その把握を裏付ける理論や政策戦略は、マルクス主義とはまったく異なる。端的にいって、ピケティはマルクス主義の理論や実践には少しの共感も同情も持っていない。それは、この映画が東欧における社会主義体制崩壊のエピソードから始まり、そこに登場するピケティがそれについて「人間解放を約束した政治体制が悲惨と政治的抑圧を生み出した」と総括していることからも明らかである。

この映画では終わりの部分でごく短く説明されるだけであるが、資本主義経済において不平等が必然的に拡大する理由としてピケティが依拠しているのは、資本主義経済の持つ「r>g」すなわち「資本収益率rが経済成長率gを上回る」という傾向である。確かに、もしこの不等式が「資本主義経済の基本法則」なのであれば、資本所有者の所得分配シェアは常に上昇し、資本を持たない労働者のそれは常に低下し続けるはずであるから、不平等の拡大という事象の一般性はそれだけで保証されることになる。さらに、その「r>g」が現実にどの程度当てはまっているのかは、実際にピケティが広範に行っているように、過去のデータから確証可能である。それは当然ながら、その同じデータから反証可能でもある。したがって、資本主義経済の持つ本質的な不平等性を明示化する目的のためには、マルクス主義のように「搾取」といった反証不可能な形而上学的概念を持ち出す必要はない。

ピケティが描き出す資本主義とは、基本的には「資本を持つものと持たざるもの」の対立図式であり、その点ではマルクス主義による階級対立の図式と表面上は似ている。しかしながら、ピケティは、マルクス主義者のように「資本=私的所有を廃絶せよ」などとは言わない。というのは、彼が映画の終わりの部分で述べているように、資本の保有さえ平等化すれば、分配の平等化は自ずと実現されるからである。そしてそれは、暴力革命による資本の簒奪といった手段を用いずとも、ピケティが示唆するような民主主義的な手続きを通じた税制改革によって十分に実現可能なのである。

プロフィール

野口旭

1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米中堅銀、年内の業績振るわず 利払い増が圧迫=アナ

ビジネス

FRB、現行政策「適切」 物価巡る進展は停滞=シカ

ビジネス

英インフレ、今後3年間で目標2%に向け推移=ラムス

ビジネス

ECB、年内に複数回利下げの公算=ベルギー中銀総裁
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:老人極貧社会 韓国
特集:老人極貧社会 韓国
2024年4月23日号(4/16発売)

地下鉄宅配に古紙回収......繁栄から取り残され、韓国のシニア層は貧困にあえいでいる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 2

    止まらぬ金価格の史上最高値の裏側に「中国のドル離れ」外貨準備のうち、金が約4%を占める

  • 3

    中国のロシア専門家が「それでも最後はロシアが負ける」と中国政府の公式見解に反する驚きの論考を英誌に寄稿

  • 4

    休日に全く食事を取らない(取れない)人が過去25年…

  • 5

    「韓国少子化のなぜ?」失業率2.7%、ジニ係数は0.32…

  • 6

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 7

    日本の護衛艦「かが」空母化は「本来の役割を変える…

  • 8

    中ロ「無限の協力関係」のウラで、中国の密かな侵略…

  • 9

    毎日どこで何してる? 首輪のカメラが記録した猫目…

  • 10

    便利なキャッシュレス社会で、忘れられていること

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 3

    攻撃と迎撃の区別もつかない?──イランの数百の無人機やミサイルとイスラエルの「アイアンドーム」が乱れ飛んだ中東の夜間映像

  • 4

    天才・大谷翔平の足を引っ張った、ダメダメ過ぎる「無…

  • 5

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 6

    アインシュタインはオッペンハイマーを「愚か者」と…

  • 7

    犬に覚せい剤を打って捨てた飼い主に怒りが広がる...…

  • 8

    ハリー・ポッター原作者ローリング、「許すとは限ら…

  • 9

    価値は疑わしくコストは膨大...偉大なるリニア計画っ…

  • 10

    大半がクリミアから撤退か...衛星写真が示す、ロシア…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこと」目からうろこの健康法

  • 4

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の…

  • 5

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 6

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

  • 10

    浴室で虫を発見、よく見てみると...男性が思わず悲鳴…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story