コラム

「ぴ」と僕のニューヨーク時間

2019年12月05日(木)16時30分

自宅でくつろぐ愛犬「ぴ」 COURTESY SENRI OE

<本誌11月16日号より、大江千里氏による連載コラムがスタート。08年に渡米し、現在はニューヨークを拠点にジャズピアニストとして活躍する大江氏が、日常を綴るコラムを月1回お届けします。初回となる今回は、ニューヨーカーと愛犬についての物語>

1歳の「ぴ」(ダックスフンドの女の子、愛称「ピース」)を連れ、マンハッタンのニュースクール大学ジャズピアノ科に入学したのは2008年1月だった。学校の近くの屋根裏部屋のようなウオークアップ(エレベーターのない建物)の4階に住んだ。前の住人が残したギシギシきしむベッドに寝て、ジャズを知らない僕が朝までピアノと格闘する背中を、ぴはじっとベッドの上から見つめていた。

初めて公園のドッグランに参加した日のことを覚えている。たくさんの犬とじゃれ合うぴを見てパパは心からホッとしたものだがそれもつかの間、彼女の体調がおかしくなる。ぐったりとして血便が出た。慌てて入院させる。なんとほかの犬から疫病をいただいちゃったみたいだった。

2日間抗生物質を入れた点滴をしてやっと元気になったぴは外泊をそれなりに満喫したみたいで、別れ際、先生たちに「Pi(パイ)」と優しく呼ばれ「もうあたし家には帰らないわ」と駄々をこねた。

ニューヨークの街を歩くと犬連れの人たちをよく見掛ける。カフェにいる小柄なユダヤ系の女性の足元でセントバーナードがあくびをしながら座っている。自分を独りぼっちにして店に入っていくひげ面の飼い主の背中をいとおしそうな目で追い掛けるヨーキーを見ると、クスッと抱き締めたくなる。犬を連れている人に会うだけでこの街では胸がキュンと鳴るのだ。

保護犬を引き取る人も多い。前足が1足だけの犬、片方の目だけの犬、補助車輪を後ろ足に着けた犬たちがニコニコ顔でお利口に散歩をする。バレンタインの地下鉄。近所で札付きの若い不良が、「僕はホームレスです。こんな日に皆さんの時間をdisturb(お邪魔)することをお許しください」と、長いまつ毛を瞬かせ一礼をした。帽子には20ドル札が山のようにたまる。彼はホームレスではないのを僕は知っているが、彼が丁寧に一礼すると女性を中心にお金をあげる人が後を絶たず、彼はすっかり味を占めてそれを繰り返すようになった。

そのうち本当のホームレスになった彼は保護犬を連れて道端で寝るようになり、「どうかこの犬の食事代を恵んでください」とキャラ替えしてせびるようになった。だんだん目がうつろになっていき、ふらふらする彼を道の隅っこから見たのは、もう3年以上前のことだ。つぶらな瞳でじっと彼をのぞき込んでいた黒のラブラドールは、あの後どうしたことだろう。

プロフィール

大江千里

ジャズピアニスト。1960年生まれ。1983年にシンガーソングライターとしてデビュー後、2007年末までに18枚のオリジナルアルバムを発表。2008年、愛犬と共に渡米、ニューヨークの音楽大学ニュースクールに留学。2012年、卒業と同時にPND レコーズを設立、6枚のオリジナルジャズアルパムを発表。世界各地でライブ活動を繰り広げている。最新作はトリオ編成の『Hmmm』。2019年9月、Sony Music Masterworksと契約する。著書に『マンハッタンに陽はまた昇る――60歳から始まる青春グラフィティ』(KADOKAWA)ほか。 ニューヨーク・ブルックリン在住。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、不倫口止め事件公判で証言せず 来週最終

ビジネス

英中銀総裁、保有国債縮小で準備金計画設定

ワールド

トランプ氏の「統一帝国」動画削除、バイデン陣営など

ビジネス

FRB高官、利下げ開始に慎重 「数カ月確認必要」と
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:スマホ・アプリ健康術
特集:スマホ・アプリ健康術
2024年5月28日号(5/21発売)

健康長寿のカギはスマホとスマートウォッチにあり。アプリで食事・運動・体調を管理する方法

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    半裸でハマスに連れ去られた女性は骸骨で発見された──イスラエル人人質

  • 2

    娘が「バイクで連れ去られる」動画を見て、父親は気を失った...家族が語ったハマスによる「拉致」被害

  • 3

    「目を閉じれば雨の音...」テントにたかる「害虫」の大群、キャンパーが撮影した「トラウマ映像」にネット戦慄

  • 4

    9年前と今で何も変わらない...ゼンデイヤの「卒アル…

  • 5

    ベトナム「植民地解放」70年を鮮やかな民族衣装で祝…

  • 6

    服着てる? ブルックス・ネイダーの「ほぼ丸見え」ネ…

  • 7

    高速鉄道熱に沸くアメリカ、先行する中国を追う──新…

  • 8

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 9

    「韓国は詐欺大国」の事情とは

  • 10

    中国・ロシアのスパイとして法廷に立つ「愛国者」──…

  • 1

    半裸でハマスに連れ去られた女性は骸骨で発見された──イスラエル人人質

  • 2

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 3

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 4

    娘が「バイクで連れ去られる」動画を見て、父親は気…

  • 5

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 6

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバ…

  • 7

    「隣のあの子」が「未来の王妃」へ...キャサリン妃の…

  • 8

    SNSで動画が大ヒットした「雨の中でバレエを踊るナイ…

  • 9

    米誌映画担当、今年一番気に入った映画のシーンは『…

  • 10

    「まるでロイヤルツアー」...メーガン妃とヘンリー王…

  • 1

    半裸でハマスに連れ去られた女性は骸骨で発見された──イスラエル人人質

  • 2

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々…

  • 5

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 6

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 7

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 8

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 9

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story