コラム

紛争と感染症の切っても切れない関係──古くて新しい中東の疫病問題

2020年03月26日(木)17時45分

新型コロナ問題が陰謀論に転化する現象は、ペルシア湾岸地域におけるイラン対サウディアラビア関係においても同様に見られる。上記の米国務省も含めて、イランの防疫対策の遅さをイランの意図的な行動とみる見方は、少なからぬ湾岸アラブ諸国で定着している。いったん収まりを見せていた宗派対立を煽る論調も復活した。

典型的なのはサウディ政府で、同国でのウイルス感染がイランから帰国したサウディ人から始まったことを重大視、「イラン政府がこのサウディ人にイラン入国のスタンプを押さなかったがゆえに、帰国したサウディ人が監視の目を潜り抜けて入国してしまった」とイラン政府に責任を嫁している。

オスマン帝国の衛生政策

メディアの反応は、もっと厳しい。湾岸の汎アラブ紙は大真面目に、イラン人があちこちにスパイを送り込んでいるとか、爆弾を仕掛けているといった議論を展開するが、その延長に、「イランが病原菌をサウディに送り込んだ」説を展開する。同紙のオピニオン欄には、「イランこそがウイルスとの闘いのための国際的協調を掘り崩すものであり、ウイルス拡大の責任を取るべきだ」、といった主張が並ぶ。

一方、イランはイランで、「ウイルスとの闘い」をかつてのイラン・イラク戦争に準えて防疫キャンペーンを展開しているが、これがまたイラク人の神経を逆なでする。イラク人は「バイ菌」と同じか?という反発だ。

感染症対策が国際政治と密接に連動するのは、今に始まったことではない。偶然だが、最近立て続けに中東における感染症をめぐる歴史分析論文が国際ジャーナルに発表された。なかなか示唆に富んでいるので、最後に簡単に紹介しておこう。

まず取り上げるのは、北米中東学会発行の「中東研究国際ジャーナル」2019年秋号に掲載された「コレラ、ペスト危機のなかのオスマン帝国:イラクと湾岸からの視点」である。論文題からわかるように、19世紀の中東地域でのコレラの大流行とその後のペストの流行に直面して、オスマン帝国と、当時湾岸地域に進出していた大英帝国や隣国のカージャール朝イランとの覇権抗争がどう展開されたがが、論じられている。

なにより面白いのは、イラク地域を支配していたオスマン帝国が、英国植民地下のインドから伝わったコレラという外来伝染病に接して、イラクはもちろんその先のペルシア湾岸地域にも検疫体制を完備しないと帝国自体を守り切れない、と危機感を抱いたことである。さらに、流行を止めるためには、検疫だけではなく領土内の保健衛生システムの確立が必要だと考えた。その結果、オスマン帝国は領内統治を一層強化するばかりか、さらに統治範囲を拡大する動きに出たのだ。

これが、中東進出を図るイギリスの目には、オスマン帝国の覇権拡張と映る。現地社会の豊富な調査、保健行政の経験の厚さを売りに、オスマン帝国は当時の国際的疫病対策レジームで主導的な役割を果たそうとするが、それもまた、西欧列強には疎ましい、打破すべき障害に見えてくる。

疫病という共通の問題に世界が協力すべきにもかかわらず、それは容易に勢力拡張競争の枠組みに吸収されてしまう。その結果、疫病対策の経験を素直に先達から学ぶというよりは、他の疫病経験国をディスることばかりにやっきになる。どこか今の状況と通じるところがある。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。
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