コラム

UAE・イスラエル和平合意は中東に何をもたらすのか?

2020年08月25日(火)17時30分

だが、UAEは違う。和平を結ばなければ自国の安全が脅かされるほど、イスラエルから脅威を受けていたわけでもないし、イスラエルもまた、UAEを取り込めば将来の紛争を回避できる、というほどの相手としてUAEを認識していたわけではない。サウディアラビアを含めた、湾岸産油国全体との「和平」が確立できれば、それはイスラエルにとって大きな財産だろうが、第4次中東戦争の石油戦略のように、湾岸産油国がイスラエルの脅威になっていた時代は、遠の昔に過ぎ去った。つまり、UAEには、エジプトやヨルダンのように、和平を結ばなければならないほど切迫した緊張関係がイスラエルとの間にあったわけでは全くないのだ。

なによりも、UAEとパレスチナ問題は、最初から切り離されていた。一般的に、湾岸アラブ諸国のパレスチナ問題への関わりは、これまでもごく薄いものでしかなかった。UAEやカタール、バハレーンが独立を果たした1971年は、すでに「アラブ・ナショナリズム」はピークを越えつつも一層ラディカルな流れへと傾斜し、「アラブの大義」に反する者は裏切り者とみなされる、という時代だった。リビアでカダフィ政権が、シリアで現アサド大統領の父親の政権が成立したのが、この年である。独立国家として道を歩み始めた瞬間から、湾岸アラブの首長国たちは、これら近隣の急進派アラブ・ナショナリスト政権から、「英国植民地支配の賜物」、「前近代的で保守的な部族」と批判される運命にあった。

なので、パレスチナ問題とのかかわりも、「アラブの大義の裏切り者」と糾弾されないために、金銭的支援にこれ務めるという程度にとどまった。第3次中東戦争以降、湾岸アラブ諸国はその石油収入の多くを、直接パレスチナに、および対イスラエル前線国家に支援として提供してきた。米ベイカー政策研究所によれば、60年代末から70年代末に湾岸産油国が行った対外援助額の半分以上が前線国家(エジプト、ヨルダン、シリア、レバノン)に向けられ、1974~79年の間にUAEやカタール、クウェートから支払われた援助は、これらの国の国民総所得の6~8%を占めたという

パレスチナ問題への関与にはアラブ諸国でも濃淡

だが、アラブ・ナショナリズムが退潮し、エジプトが対イスラエル戦線から脱落すると、石油収入の増大で経済大国としての地位を高めていった湾岸アラブ諸国は、徐々に「アラブの大義」のくびきから離れていく。1990~91年の湾岸危機・湾岸戦争で、クウェートがイラクに占領された際、パレスチナ人たちがイラク側を支援したことで、湾岸アラブ諸国の対パレスチナ援助がぱったりと止まったことは、よく知られている。

湾岸アラブ諸国の間でも、パレスチナ問題への関与には濃淡がある。UAEより少し早く独立したクウェートは、初期には(「アラブの大義」もあって)パレスチナ難民を労働力として多く受け入れていたが、そのことがパレスチナ問題に巻き込まれる契機になるという先例を見たUAEは、最初から非パレスチナ人、あるいは非アラブ人の移民労働力に依存した。アラブ・ナショナリズムという汎アラブの思想は、クウェートやバハレーン、サウディアラビアでは多少なりとも国内で流行を見たが、ナセル主義にせよバアス主義にせよ、UAEには根付かなかった。パレスチナ問題や「アラブの大義」とは、UAEにとって徹底して「お付き合いせざるを得ない、他人事」だったのだ。和平合意後、これまでのUAEの親パレスチナ政策を反省して、UAEのブロガーが「自分たちはまだガキだったから」と発言したビデオが、話題になった。

なので、今回のUAE・イスラエル和平も、パレスチナ抜きであることは、全く驚くに値しない。あくまでも自国利益追求が目的である。それは、対イラン共闘であり、対米貢献であり、技術協力であり、ポスト石油時代の新外交戦略だ。

<参考記事:撃墜されたウクライナ機、被弾後も操縦士は「19秒間」生きていた
<参考記事:「歴史的」国交正常化の波に乗れないサウジの事情

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。
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