最新記事

日本経済

黒田日銀の異次元金融緩和は「失敗」したのか

2016年11月4日(金)16時30分
野口旭(専修大学経済学部教授)

なぜインフレが必要か

 現代の中央銀行の多くは、目標として設定された物価指標や物価上昇率に多少の相違はあるが、このインフレ目標という枠組みに基づいて金融政策を運営している。日銀の場合には、「消費者物価指数(除く生鮮食品)の前年比上昇率の実績値が安定的に2%を達成」することが目標とされており、これは他の先進諸国の中央銀行においてもほぼ同様である。この「2%」というインフレ率の目標水準は、先進諸国ではほぼスタンダードとなっている。これは、現代の中央銀行は、マイナスのインフレ率である「デフレ」はもとより、0%や1%といった「低すぎるインフレ率」も望んでいないということを意味する。

 上述のように、高いインフレ率それ自体は、人々がより豊かになることをまったく意味しない。実際、人々が望むのは、より高い所得であって、より高い物価ではない。物価が高くなることそのものは、所得が増えない限り人々を実質的により貧しくするのであるから、それは当然である。メディアの報道においても、庶民の生活を脅かすものとして常に問題視されてきたのは、デフレではなくてインフレであった。

 にもかかわらず中央銀行は、0や1ではなく、2%というインフレ率を求める。それは、最も上位の政策目標である「望ましい雇用や所得の確保」が、0%や1%といった低インフレでは実現できないからである。当然ながら、その目標はデフレではなおさら実現できない。

 そのことの意味は、「フィリップスカーブ」として知られる、失業率とインフレ率との間に成り立つ相関関係から明らかになる。図1は、日本にデフレが定着しつつある頃に、それが何を意味するのかを先駆的に論じた原田泰・岡本慎一「水平なフィリップスカーブの恐怖-90年代以降の日本経済停滞の原因」(『週刊東洋経済』2001年5月19日号)に描かれていた、日本のフィリップスカーブである。

noguti1104a.jpg

図1 日本のフィリップスカーブ(1980〜2001年)

 それは、きわめて重要な二つの経験的事実を示している。第1は、インフレ率が1%を下回ると失業率が急激に上昇し始めることである。これが、原田・岡本の言う「水平なフィリップスカーブ」である。第2は、失業率が2%半ばを越えると、インフレ率が2%を越えて急激に上昇し始めることである。逆にいえば、インフレ率が2%を越えても、失業率はほとんど低下しない。この「2%半ば」というインフレ率を加速させない失業率の閾値は、インフレ非加速的失業率、英語の略称ではNAIRU(Non-Accelerating Inflation Rate of Unemployment)と呼ばれている。これは、事実上の完全雇用を意味すると考えられる。

 このNAIRUの値は、労働市場の制度的要因に左右されるため、国ごとに異なるし、同じ国でも時期によって異なる。重要なのは、そのNAIRU値がいくらであるにせよ、その「インフレを加速させない下限」である失業率に到達するためには、0%や1%ではなく、ましてやデフレではなく、少なくとも2%程度のインフレが必要ということである。それは、一般に賃金には名目的な硬直性があるため、ある程度のインフレ率がないと雇用の調整が阻害されるためと考えられる。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

台湾の頼次期総統、20日の就任式で中国との「現状維

ワールド

イスラエル軍、ガザ北部で攻勢強化 米大統領補佐官が

ワールド

アングル:トランプ氏陣営、本選敗北に備え「異議申し

ビジネス

日本製鉄副会長が来週訪米、USスチール買収で働きか
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 2

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた異常」...「極めて重要な発見」とは?

  • 3

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバいのか!?

  • 4

    SNSで動画が大ヒットした「雨の中でバレエを踊るナイ…

  • 5

    存在するはずのない系外惑星「ハルラ」をめぐる謎、…

  • 6

    チャールズ英国王、自身の「不気味」な肖像画を見た…

  • 7

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 8

    時速160キロで走行...制御失ったテスラが宙を舞い、4…

  • 9

    「円安を憂う声」は早晩消えていく

  • 10

    英供与車両から巨大な黒煙...ロシアのドローンが「貴…

  • 1

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 2

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 3

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 4

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々…

  • 5

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 6

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 7

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 8

    大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋…

  • 9

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバ…

  • 10

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 6

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 7

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 8

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 9

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 10

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中