最新記事

いとうせいこう『国境なき医師団』を見に行く

鍋をかぶった小さなデモ隊──マニラのスラムにて

2017年4月27日(木)17時45分
いとうせいこう

別のクリニックへ

再びクリニックへ行って、メアリー・ルース・ロクサスさんという若いMSFの女性医師にあれこれうかがったが、他と重複するので翌日に移る。

俺たちは早朝からロセルと一緒にダイニングルームでパンをかじった。空き部屋がひとつあるのでそこに泊まることにしたのだった。そうすれば市外の少し遠くに住んでいるロセルにも出勤がつらくないからだ。マニラの渋滞は他のアジア都市に比べても凄まじいのだ。

ピックアップトラックが建物の下に迎えに来ていたので、俺と広報の谷口さんとロセルでまずMSFフィリピン(国境なき医師団)のオフィスへ行った。途中、日本の首相が任期延長だというニュースをネットで知り、なんとなくそのことを話しているとロセルはひとこと「マルコス!」と言った。

オフィスでしばし待ったあと、ジェームスとジュニーに連れられて、俺たち三人はサン・アンドレスというスラム地区に移動した。雨がしとしと降っていて、マニラは少し肌寒かった。暗い空の反映か、車で到着した場所はあれこれ店などがあるもののなんだか人も音も少なめで寂しかった。今から考えてみれば、前日のように子供が走り回っていなかった。太い道路が走っているから、バランガイの奥の広場のように安全ではないのだ。

道の両側の建物も、あちこち壊れ、折れた木材が突き出していたり、穴があいたままになっていたりで、そこに雨が吹き込み、雨が滴っていた。「貧民街」という言葉が自然に頭の中に浮かんできたのを覚えている。

その中に小さな入り口があり、俺たちは薄暗い室内に入った。リカーンとMSFがリプロダクティブ・ヘルス(性と生殖に関わる健康)のもうひとつの拠点にしているクリニックがそこなのだった。中で待っていてくれたのはエマという、いかにも隣のおばさんといった感じのコミュニティ・ヘルス・モビライザー(地域保険推進員、つまり住民との架け橋だ)で、彼女に示されて奥の部屋に入ると、もうそこはほとんど民家だった。

透明ビニールが掛かった大きめのテーブル、ばらばらの椅子、古いクッション、壁にはポスターや予定表が隙間なく貼られ、冷蔵庫がブーンと鳴っていて、もう一人の女性スタッフがにこやかに水を出してきてくれる。

さらに奥に相談室があり、処置室があるのはあとでわかったことだ。若者が妊娠のことなどで悩めばそこに来る。避妊のための器具もそこで与えられる。医師がどんな人かは会えずじまいでわからなかったが、エマたちを見ている限り、来訪者は遠い親戚に秘密を打ち明けるような気分になるのではないか。

白板には月に一度のアウトリーチの予定も書かれていた。サン・アンドレスに来られない若者のために、幾つかの地域を順に回っているのらしかった。おばさんたちのこまやかな、そして決して肩ひじ張らずに見える(実態はそんなはずなかろう。予算の問題もある。救えなかった相手もある。討論好きは彼らの性分でもある)活動の一端がそこにもあった。

ジュニーは途中で俺にこう言った。

「ただし色んなバランガイに行っても屋外だから天候に左右される。だからここが必要なんだ。いつでも誰でも来られる」

エマおばさんの話では、そこでは相談とか治療とかだけでなく、例えば俺たちの目の前にある大きなテーブルをどかして、スタッフのトレーニングやら若者への講義やらを行ったりもするそうで、つまり医療の付いた公民館みたいな役割を、いかにもリカーンらしく担っているのだった。

またエマはユーチューブも見せてくれた。カップルが恋愛について話しあう映像で、そうした今風のメディアを教材にして若者をひきつけ、理解を求めるよう努力しているとのことだった。特に彼女たちコミュニティ・ヘルス・モビライザーは13〜19歳という思春期の男女に向けて力を入れて活動しているという話も聞いた。多感な季節に避妊に疎いのは、日本とて同じだ。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

ロシアのLNG輸出、今後4年の停滞想定 経済省の悲

ワールド

ブラジル資源大手バーレ、第1四半期純利益9%減 予

ビジネス

韓国LGエナジー、第1四半期は前年比75%営業減益

ワールド

米、ウクライナに長距離ミサイル供与 既に実戦使用
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 2

    医学博士で管理栄養士『100年栄養』の著者が警鐘を鳴らす「おばけタンパク質」の正体とは?

  • 3

    「誹謗中傷のビジネス化」に歯止めをかけた、北村紗衣氏への名誉棄損に対する賠償命令

  • 4

    心を穏やかに保つ禅の教え 「世界が尊敬する日本人100…

  • 5

    マイナス金利の解除でも、円安が止まらない「当然」…

  • 6

    NewJeans日本デビュー目前に赤信号 所属事務所に親…

  • 7

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 8

    ワニが16歳少年を襲い殺害...遺体発見の「おぞましい…

  • 9

    ケイティ・ペリーの「尻がまる見え」ドレスに批判殺…

  • 10

    イランのイスラエル攻撃でアラブ諸国がまさかのイス…

  • 1

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 2

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価」されていると言える理由

  • 3

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた「身体改造」の実態...出土した「遺骨」で初の発見

  • 4

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士…

  • 5

    「世界中の全機が要注意」...ボーイング内部告発者の…

  • 6

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 7

    医学博士で管理栄養士『100年栄養』の著者が警鐘を鳴…

  • 8

    NewJeans日本デビュー目前に赤信号 所属事務所に親…

  • 9

    「たった1日で1年分」の異常豪雨...「砂漠の地」ドバ…

  • 10

    「誹謗中傷のビジネス化」に歯止めをかけた、北村紗…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこと」目からうろこの健康法

  • 4

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の…

  • 5

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 6

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 10

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中