最新記事

香港デモ

香港「逃亡犯条例」改正反対デモ──香港の「遺伝子改造」への抵抗

2019年8月23日(金)16時45分
倉田徹(立教大学教授)

そのようななか、政治的安定を保つために、香港政庁が選んだのは法の支配であった。

権力者から末端の市民まで、国籍を問わず、すべての人を等しく縛る中立的で独立した司法を設けて、政治問題をも裁判所の法に基づく判断に委ねてしまえば、政府は左派からも、右派からも、ひいきまたは差別したと指弾されることを避けられる。その結果として、非民主的な植民地統治に法の支配が伴う珍しい現象が、戦後香港で生じたのである。

しかし、逃亡犯条例改正によって、大陸からの引き渡し要求がなされるようになった場合、香港は司法の独立を維持できるのか。

引き渡し要求が中央政府からなされた場合、応じるか否かを判断するのは香港の裁判所である。共産党政権が、自身が強く敵視する人物に対し、経済犯罪などの容疑をかけて香港からの引き渡しを求めた場合、中国の一地方である香港の裁判所は、圧力を排して公正に判断できるのか。これには香港の裁判官からも不安の声が上がった。

自由の防衛戦──香港抵抗運動の「お家芸」

法の支配は、香港が経済活動の自由度世界一と評価されるにあたり、欠かせない条件であった。強大な政治勢力を背景にした巨大企業も、難民が徒手空拳から興した零細企業も、少なくとも法律においては、同じルールの下で公平に扱われることを意味したからである。

しかし、共産党が指導する中国の裁判所が引き渡し要求できる制度ができれば、香港の経済活動・言論活動・政治活動は、中国への忖度の度を高めざるを得ない。

政府が最低限のルールだけを定めて社会を放任し、無秩序に近い自由が展開される香港の特徴が失われれば、「香港は香港でなくなってしまう」という感覚は、「何でもあり」の香港映画などに親しんだ人であれば、日本人でも分かるところではないか。

したがって、香港市民は上述のように、何重もの意味で香港の「遺伝子改造」とも言うべき逃亡犯条例改正を阻止すべく立ち上がったわけであるが、自由の防衛戦はまた、香港市民運動の遺伝子に刷り込まれた「お家芸」でもあった。

返還後も、香港の反政府派は、2003年に「50万人デモ」で国家安全条例を廃案に追いやり、2012年には「反国民教育運動」で小・中・高の愛国教育の必修化を断念させた。

民主的な行政長官の普通選挙を求める2014年の雨傘運動が成果を得られなかったように、香港が何かを求めて「攻める」運動は得意ではないが、自由を「守る」となると、市民は一致団結して激しく抵抗し、多くの場合は成功するのである。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

中国テンセント、第1四半期は予想上回る6%増収 広

ワールド

ロシア大統領府人事、プーチン氏側近パトルシェフ氏を

ビジネス

米4月卸売物価、前月比+0.5%で予想以上に加速 

ビジネス

米関税引き上げ、中国が強い不満表明 「断固とした措
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 2

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少子化の本当の理由【アニメで解説】

  • 3

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 4

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 5

    年金だけに頼ると貧困ライン未満の生活に...進む少子…

  • 6

    「ゼレンスキー暗殺計画」はプーチンへの「贈り物」…

  • 7

    アメリカからの武器援助を勘定に入れていない?プー…

  • 8

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 9

    「人の臓器を揚げて食らう」人肉食受刑者らによる最…

  • 10

    ブラッドレー歩兵戦闘車、ロシアT80戦車を撃ち抜く「…

  • 1

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 2

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 3

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地ジャンプスーツ」が話題に

  • 4

    大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋…

  • 5

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 6

    「恋人に会いたい」歌姫テイラー・スウィフト...不必…

  • 7

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 8

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 9

    日本の10代は「スマホだけ」しか使いこなせない

  • 10

    ウクライナ防空の切り札「機関銃ドローン」、米追加…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 6

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 7

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中