コラム

北朝鮮とトランプ:「リビア方式」を巡る二重の誤解

2018年05月21日(月)19時30分

しかし、既に述べたように、2003年のリビア核合意は、そもそも制裁の結果の核合意ではなく、核兵器を持たないが故の体制保証でもなかった。

リビアで体制転換が起きたのは「アラブの春」が強く影響しており、リビア国内での反体制派が立ち上がってカダフィ体制との内戦を開始し、その過程でNATO軍が反体制派を支援してリビアへの攻撃を加えたが、当時のオバマ政権は「Leading from behind」という立場をとって、NATO軍の全面に立つことなく、後方からの支援に徹していた。また、イラク戦争はサダム・フセインが大量破壊兵器を隠し持っているという疑惑があるとして戦争を始めたが、そもそもイラクとの間には核合意に相当するものは存在していない。

つまり、北朝鮮が参照したリビアやイラクのケースはいずれも核合意との関係はなく、核合意があろうとなかろうと戦争を始めることは可能であり、合意が先だろうが、制裁解除が先だろうが、段階的だろうが関係ない、ということである。にも関わらず、北朝鮮は核合意手順の問題と体制保証の問題を結びつけたのである。これはまさに北朝鮮がタカ派であるボルトンを外し、自らが求める段階的な制裁解除を導き出すための交渉術として、アメリカに対して揺さぶりをかけたことに他ならない。

トランプはそうした揺さぶりを正面から受け止め、反応してしまったがゆえに、「リビア方式」を拒否することは、すなわちカダフィのような結末にならないこと、つまり体制の存続を保証するという約束をしただけでなく、北朝鮮が求める段階的制裁解除とすることで、核兵器・核開発能力の温存を可能にするような合意を目指すことができるようにした、と言うことである。

つまり、北朝鮮が意図的に作り出した誤解を、そのままトランプが誤解したまま受け入れてしまった結果、過去のリビア核合意の過程の現実とはかなり異なった理解がまかり通るようになり、その誤解の上で米朝首脳会談が行われることになったのである。

二重の誤解の帰結

このように「リビア方式」を巡っては、ボルトンも誤解し、北朝鮮も(意図的に)誤解し、そして北朝鮮の誤解をそのまま受け入れたトランプも誤解したまま米朝首脳会談が開かれることになる。では、こうした誤解に基づく交渉は、どのような帰結を生み出すのであろうか。

一つには、合意が結ばれるとすれば、南北閣僚級会談で発せられた「板門店宣言」を超えるもの、1992年の非核化宣言を超えるものにならないのではないかと思われる。つまり、曖昧な形で非核化を定義し、北朝鮮が主張する「朝鮮半島の非核化」という文言は入りつつも、CVIDの文字は入らないという、北朝鮮に有利な合意が結ばれつつも、具体的な核廃棄へのプロセスや、検証の方法は明記されず、IAEAによる査察(特に追加議定書に基づく申告していない施設への抜き打ち査察)も明示的に入れられることがないものになる可能性は高いと考えられる。

既にトランプ大統領は合意ができれば北朝鮮の体制は保証されると約束しており、北朝鮮はなんとしてでも合意を成立させることを優先するであろう。また、中間選挙を控え、ここまで大きな騒ぎになってしまった以上、トランプ大統領も外交的成果として示せるものが欲しいというインセンティブはあるだろう(もちろん、合意が出来なければ「アメリカの安全のために合意を蹴った」という主張もあり得る)。そのため、できる限り曖昧でも次の交渉に繋がるような合意にし、決裂を避ける方向で交渉が進むものと考えられる。

そのため、合意の最低限のラインとなるのは1992年の非核化宣言(北朝鮮が核兵器を持つ前のものであることに留意する必要はある)ないしは、4月の「板門店宣言」のラインであれば、北朝鮮としても合意は可能であるという立場で交渉に臨むものと思われ、トランプ大統領はそこに何かを加えて交渉が難航するよりも、とりあえずの合意を採択することを優先するのではないかと考えられる。

プロフィール

鈴木一人

北海道大学公共政策大学院教授。長野県生まれ。英サセックス大学ヨーロッパ研究所博士課程修了。筑波大大学院准教授などを経て2008年、北海道大学公共政策大学院准教授に。2011年から教授。2012年米プリンストン大学客員研究員、2013年から15年には国連安保理イラン制裁専門家パネルの委員を務めた。『宇宙開発と国際政治』(岩波書店、2011年。サントリー学芸賞)、『EUの規制力』(共編者、日本経済評論社、2012年)『技術・環境・エネルギーの連動リスク』(編者、岩波書店、2015年)など。

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