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パスタな国の人々

宮本さやか|イタリア

チーズ界のロールスロイスを食べる



北イタリアでは、夏の暑い時期に平地からアルプスの高地にある牧草地へ牛を移動し、牛の飼い主である畜産家と牛達はそこで暮らし、チーズを作る。高山の澄んだ空気と新鮮な草を食べた牛のミルクは格別で、そのミルクから作られるチーズを「アルペッジョ」(アルプスの牧草地、という意味でもある)と呼び、希少価値が与えられる。同じチーズでも、冬の間の干し草を食べた牛のチーズと高山の新鮮な草を食べた牛のチーズでは、味も価格も別格に違うのだ。


IMG_0638のコピー.jpg写真はピエモンテの高級チーズ「カステルマーニョ」。普通バージョンなら1キロ38,90ユーロ、アルペッジョバージョンなら1キロ69,90ユーロ(写真:著者撮影)

そんなアルペッジョチーズの中でも、さらに別格中の別格なのが「ベッテルマット」だ。牧草地の名前でもあり、そこで作られるチーズの名前でもある。

その牧草地ベッテルマットは、もうそこはスイス、という標高2000mの位置にあって、畜産家でチーズ職人のアルベルト・マッズーリさんが牛75頭と共に夏の2ヶ月を暮らす場所だ。私がチーズ熟成士のジョバンニさんに連れられベッテルマットを訪れたのは、イタリアでコロナの第一波が収束して普通の暮らしが戻ってきた、と思い込んでいた去年の8月のことだ。同じピエモンテ州なのに、私が暮らすトリノから車で1時間半の中腹あたりの駐車場で待ち合わせをし、1時間半山道を登って登って、日頃の運動不足を呪い、もうチーズは諦めるよ、と言いそうになるのをこらえて峠を越えたところに、ベッテルマットの牧草地はあった。

IMG_1256のコピー.jpg  ベッテルマットの牧草地。中央奥のやや左側に小屋があり、そこで2ヶ月間暮らしチーズを作る。右手の山はスイス国境(写真:著者撮影)。

チーズ「ベッテルマット」が特別なのは、牧草地ベッテルマットと、その周辺の6つの牧草地でだけ作られるものであること、そして高山に草がある夏の7月、8月の2ヶ月間のみしか作らないということだ。他のアルペッジョチーズは、夏の期間を過ぎたら牛を平地におろし、冬の間もチーズを作るのだが(アルペッジョのチーズとは呼べなくなるが)、ベッテルマットは夏の間の2ヶ月の間限定。私が取材をさせてもらったチーズ職人のアルベルトさんは、2ヶ月の間にだいたい1300型前後を作ると言っていたので、単純にその7倍の数が一年間の総生産量だ。

IMG_1286のコピー.jpg         ベッテルマットの牧草地でチーズ作りを続けるアルベルト・マッズーリさん(写真:著者撮影)

このチーズのおいしさは、ベッテルマットの牧草地だけにある草に秘密があると言われている。パセリに形が似た、緑の色が濃い草で、それが香り高いミルクの味を作り出す、とあちこちのグルメ本に書かれている。でもここへ私を案内してくれたジョバンニさんは言う。

「このベッテルマットの気候と草はもちろん大事だけど、牛自体の上質なミルクを作りだす能力もとても重要なんだよ」と。

ベッテルマットでアルベルトさんが飼育しているのは、ブルーナとペッツァータ・ロッサという2種類の品種の牛だ。伝統的にイタリア北部やスイスで飼育されて来た牛で、一日に絞れるミルクの量は3-8リットルという。牛といえば白黒模様のあれ、というイメージのホルスタインは1日に30-35リットルも!出すというから、量で言ったら全く見劣りしてしまうのだが、アルプス高度の草を食べ、自由に動き回る牛のミルクの方が、牛舎にずらりと並べられじっと干し草を食べているだけの牛が大量に出すミルクよりも、味も香りもずっと濃厚で豊かなのは言うまでもない。

IMG_4240のコピー.jpg          ラブリーなブルーナ牛(写真:著者撮影)

そんな牛たちと2ヶ月間山で暮らし、毎日朝夕2回、乳を絞りチーズに仕込むアルベルトさんは今年、75歳になる。真っ黒に日焼けしたたくましい腕と長年の経験で鍛えた感で、大鍋の中で固まったチーズを持ち上げる仕草に全く年齢は感じさせない。それでもいつかは引退する時が必ずやってくるだろうなあ、と後継者のことを尋ねると、今のところ跡継ぎ候補はいないのだという。長年ずっと手伝いをしてくれているというアルバニア人の青年は、テキパキと働き真面目そうだから、彼はどうなの?と私が聞くと、ありえない、という顔で私をじっと見つめ、微笑んだ。

あの微笑みは人種差別なんていう大げさなものではなかったはずだ。昔から家族で受け継いでいる仕事は、家族が受け継ぐ。単純にそんな思い込みがあるだけなんだろう。しかし高齢化が進み、きつくて儲からない仕事をしたがる若者はどこの世界でも希少だ。毎日3時に起きて、一日中70頭の牛と3人の人間だけで2ヶ月暮すヘビーな仕事を継ぎ、伝統文化を保存していく。それはどこで生まれたかよりも、いかにその文化を守っていきたいと熱く願うかどうかにかってくるのではないか。

Profile

著者プロフィール
宮本さやか

1996年よりイタリア・トリノ在住フードライター・料理家。イタリアと日本の食を取り巻く情報や文化を、「普通の人」の視点から発信。ブログ「ピエモンテのしあわせマダミン2」でのコロナ現地ルポは大好評を博した。現在は同ブログにて「トリノよいとこ一度はおいで」など連載中。

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