コラム

「最も巨大な国益の損失」を選択したイギリス

2017年04月03日(月)05時50分

バルニエ氏は、2018年10月までの離脱協定合意を目標としており、その合意が得られれば次のステージとして貿易協定の合意を目指して交渉を開始する。イギリス政府は、離脱協定と貿易協定の平行した交渉を要求しているが、EU側はそれを明確に拒絶して、離脱協定を合意してから貿易協定をめぐる交渉という次のステージに移る方針を明らかにしている。そこでの最大の問題となるのは、イギリス政府によるEUへの分担金支払いであろう。

貿易協定は、合意に至るまでには5年から10年の期間が必要とされている。2018年10月に開始したとしてとても2019年3月までには合意は不可能であろう。だとすれば、両者の間で暫定協定が必要になる。すなわち、英・EU間の貿易協定の合意が見込まれる2020年代半ばに至るまでに、イギリスはおそらく欧州経済領域(EEA)と呼ばれる自由貿易地帯に参加することで、ノルウェーのようなEU非加盟国と同様に、大陸の「単一市場」加盟を維持することであろう。

その間は、イギリス政府は継続的に分担金を拠出しなければならず、また「人の自由移動」を受け入れるために移民のコントロールも行うことはできない。いわば、離脱派が主張した条件を、貿易協定の合意が見込まれる2020年代半ばまでは実現できないことを意味する。

それまでの間に、おそらくはイギリス国内の直接対外投資は大きく冷え込むであろうし、また生産拠点の多くは、コスト削減競争に生き残るためにも、関税障壁が構築されるまでの間にイギリス以外のEU諸国に移動することであろう。スイスの金融大手のUBSの調査に拠れば、すでに英国の拠点について調査対象のうちで4割もの企業が国外移転を考えていると返答している。ロンドンのシティの金融機関も、その多くが一部を国外に移転することを明言している。イギリスの雇用は大幅に削減され、また税収も大きく縮小することで、離脱派が訴えていたようなEU離脱にともなう社会保障の充実の実現は非現実的だ。

【参考記事】イギリスとEU、泥沼「離婚」交渉の焦点

真珠湾攻撃前の日本のような空気がイギリス政府内に?

もしもイギリスにとって有利な条件があるとすれば、それは現在のところユーロ経済圏がきわめて不安材料が多く、大陸の多くの諸国で反EUを掲げる極右勢力が台頭していることからも、EUの結束がより困難となることだ。すなわち、遠心力が働くEUのほうが、EU離脱をして国家主権の回復を目指すイギリスよりも、経済的にはより多くの障害と困難が見られる。

これからの不安定な移行期において、EUとイギリスの双方ともに、多くの困難に直面することが想定されており、両者が「共倒れ」になることを防がなければならない。しかしながら、現在のメイ保守党政権では、メイ首相やハモンド財務相が当初想定していたようなプラグマティックな政策方針は大きく後退して、デーヴィス離脱相のような強硬な対決姿勢が優勢だ。それゆえ、イギリス政府はしばらくの間は、EUへの強硬な態度を示さざるを得ないであろう。それゆえ、短期での交渉妥結は非現実的だ。

プロフィール

細谷雄一

慶應義塾大学法学部教授。
1971年生まれ。博士(法学)。専門は国際政治学、イギリス外交史、現代日本外交。世界平和研究所上席研究員、東京財団上席研究員を兼任。安倍晋三政権において、「安全保障と防衛力に関する懇談会」委員、および「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」委員。国家安全保障局顧問。主著に、『戦後国際秩序とイギリス外交』(創文社、サントリー学芸賞)、『外交による平和』(有斐閣、櫻田会政治研究奨励賞)、『倫理的な戦争』(慶應義塾大学出版会、読売・吉野作造賞)、『国際秩序』(中公新書)、『歴史認識とは何か』(新潮選書)など。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

アングル:トランプ氏陣営、本選敗北に備え「異議申し

ビジネス

日本製鉄副会長が来週訪米、USスチール買収で働きか

ワールド

北朝鮮の金総書記、核戦力増強を指示 戦術誘導弾の実

ビジネス

アングル:中国の住宅買い換えキャンペーン、中古物件
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 2

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた異常」...「極めて重要な発見」とは?

  • 3

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバいのか!?

  • 4

    存在するはずのない系外惑星「ハルラ」をめぐる謎、…

  • 5

    「円安を憂う声」は早晩消えていく

  • 6

    チャールズ英国王、自身の「不気味」な肖像画を見た…

  • 7

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 8

    中国のホテルで「麻酔」を打たれ、体を「ギプスで固…

  • 9

    時速160キロで走行...制御失ったテスラが宙を舞い、4…

  • 10

    英供与車両から巨大な黒煙...ロシアのドローンが「貴…

  • 1

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 2

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 3

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 4

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々…

  • 5

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 6

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 7

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 8

    大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋…

  • 9

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 10

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 6

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 7

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 8

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 9

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story