コラム

『ブンミおじさんの森』で世界的に注目されるアピチャッポン監督の最新作

2016年03月04日(金)17時00分

現在と埋もれた歴史の境界が曖昧になる

 この映画は、機械音が響いてくるところから始まり、間もなく映像によってそれが、かつて校庭だった場所の土をショベルカーで掘り返している音であることがわかる。その目的は定かではないが、ドラマでは、そんな導入部から水平方向の視点と垂直方向の視点が複雑に絡み合っていくことになる。前者は、バンコクという中心がイサーンという地域をタイ化していくことを意味し、後者は、バンコクとは異なる歴史を持つイサーンの地層を掘り起こしていくことを意味する。

 仮設病院はそんなふたつの視点が交錯する場になる。一方では、アフガニスタンの米兵にも効果があったという機械が設置され、青、緑、赤へと色が変わる光を使った治療が実施される。それは外部から入ってくる新しい科学技術といえる。これに対して、ジェンやケンは地元に生きる個人として兵士イットに触れ、彼の世界へと分け入っていく。アピチャッポンは科学を否定するわけではなく、ふたつの視点が結びついて起こる化学変化のようなものを描き出している。

『光りの墓』予告編 


 この映画では、日常と非日常がほとんど同じ次元で表現される。たとえば、ある日、ジェンの前にふたりの美しい女性が現れる。彼女たちは違和感のない普通の格好をしているが、ジェンが参詣した霊廟に祀られたラオスの王女たちだとわかる。そして、ジェンに眠り病について、病院の下に大昔の国王たちの墓があり、その魂が兵士たちの生気を吸い取って、今も戦い続けていると説明する。

 その一方では、新製品の化粧品のクリームや健康サプリのような平凡なものが、思わぬ役割を果たし、主人公たちを深く結びつけていく。断続的に目を覚まし、ジェンと出歩くようになったイットは、おそらくは眠っている間もジェンとケンの会話を聞き、ジェンが精子の匂いがすると語るクリームに鋭い嗅覚で反応している。

現実と夢、生と死が混ざり合う

 ドラマには他にも、瞑想の訓練、言葉や文字を通してタイ化を進めた学校、人にとり憑いた霊を描く娯楽映画、かつて目にした不思議な生き物など、多様な要素が盛り込まれ、混ざり合い、巧妙な編集と相まって現実と夢の境界を消し去っていく。そんな空間では、イットがジェンを見えない王宮に導き、案内するといったことも起こるが、彼らの関係は埋もれた歴史を掘り起こすだけではない。

 この映画で最も印象に残るのは、患者であるイットと彼を世話するジェンの立場が逆転する瞬間だろう。それは、ふたりがお互いの心の奥深くに入り込んだことによって起こる。アピチャッポンはこの新作で、『ブンミおじさんの森』とはまったく異なるイメージを駆使して、私たちに他者への想像力を喚起させる。


●参照文献
『東北タイにおける精霊と呪術師の人類学』津村文彦(めこん、2015年)

●映画情報
『光りの墓』
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン
公開:2016年3月26日よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

ダウ平均、一時初の4万ドル突破 好決算や利下げ観測

ビジネス

金融デジタル化、新たなリスクの源に バーゼル委員会

ワールド

中ロ首脳会談、対米で結束 包括的戦略パートナー深化

ワールド

漁師に支援物資供給、フィリピン民間船団 南シナ海の
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 2

    羽田空港衝突事故で「日航の奇跡」を可能にした、奇跡とは程遠い偉業

  • 3

    アメリカはどうでもよい...弾薬の供与停止も「進撃のイスラエル」は止まらない

  • 4

    老化した脳、わずか半年の有酸素運動で若返る=「脳…

  • 5

    半分しか当たらない北朝鮮ミサイル、ロシアに供与と…

  • 6

    総額100万円ほどの負担増...国民年金の納付「5年延長…

  • 7

    2023年の北半球、過去2000年で最も暑い夏──温暖化が…

  • 8

    共同親権法制を実施するうえでの2つの留意点

  • 9

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 10

    仰向けで微動だにせず...食事にありつきたい「演技派…

  • 1

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 2

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 3

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 4

    大阪万博でも「同じ過ち」が繰り返された...「太平洋…

  • 5

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 6

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 7

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 8

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 9

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 10

    「終わりよければ全てよし」...日本の「締めくくりの…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 4

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 5

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 6

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 7

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 8

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 9

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story