コラム

「ホロコーストはなかった」とする否定論者との闘い 『否定と肯定』

2017年12月07日(木)18時50分

リップシュタットは、法廷における戦術を理解しているわけではない。だから、彼女と弁護団の間に準備段階から軋轢が生じる。

特に注目したいのは、弁護団を主導する法廷弁護士リチャード・ランプトンとリップシュタットが、証拠収集のためにアウシュヴィッツを訪れる場面だ。彼らは、ガス室の遺構や衣服のシラミ駆除に使用された建物を検証していく。

この場面では、フレッド・ロイヒターという名前が重要なキーワードになる。処刑装置専門家を自称するアメリカ在住のロイヒターは、否定論者によってアウシュヴィッツに送り込まれ、不正な手段で建造物から毒物採取を行い、科学的な検証によってガス室は殺人装置として機能できないことを証明したと主張した。アーヴィングはこのロイヒター報告書と出会うことで確信を持ち、否定論を前面に押し出すようになった。

弁護士のランプトンはそのロイヒターに強い関心を示し、同行した専門家に細かな質問を繰り返す。これに対して感情的になったリップシュタットは、ロイヒターなど語るに値しないと言って、その場所にいる限りは敬意を示すように要求する。アウシュヴィッツに立ち、厳粛な気持ちになっている彼女には、検証に集中するランプトンが感情のない人間に見えたのだろう。

真実を守ることがますます難しくなってきている現在

しかし、リップシュタットはただ感情的になっているだけではない。このアウシュヴィッツ、あるいは法廷での彼女の姿勢は、『ホロコーストの真実』を執筆したときのそれとは明らかに違っている。

ロイヒターについては、それ以前の別の裁判で、専門的な知識も資格も能力もなく、その報告が科学的にも方法論的にも間違っていることが明らかにされている。しかしそれでもマスコミが彼を取り上げ、ゴミになるはずの報告が一人歩きする。そんな現実を踏まえて彼女は以下のように書いている。


「信頼性がまったくないのに、否定者がロイヒターの話を繰り返せるというのは、真実がフィクションよりもはるかに脆く、理性だけではそれを守れないことを示唆している」

ところが、裁判が決まってからそんな視点は見失われていく。リップシュタットは真実の側に立ち、アーヴィングに対抗しようとする。だから、生存者や自分が法廷で証言することを望む。彼女は、これまで注意深く避けてきた両論併記の罠に陥りかけているともいえる。

だが、ランプトンと弁護団は、彼女の意向を受け入れようとはしない。アーヴィングにエサを与えず、彼の否定論に的を絞り、それを徹底的に突き崩そうとする。それは『ホロコーストの真実』で彼女が展開した戦術でもある。

もしこの裁判で、弁護団がリップシュタットの意向に配慮して異なる戦術をとっていたら、その結果は違ったものになっていたかもしれない。

この映画は、ホロコースト否定論者の問題を浮き彫りにするだけでなく、真実を守ることがますます難しくなってきている現在について考えるヒントも与えてくれる。

《参照/引用文献》
『ホロコーストの真実――大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ』デボラ・E・リップシュタット 滝川義人訳(恒友出版、1995年)


『否定と肯定』
公開:12月8日(金)、TOHOシネマズ シャンテ 他全国ロードショー

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

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